美空ひばりさんの歌手誕生から三代目山口組組長・小林旭について


今回は、美空ひばりさんの結婚について触れていきたいと思います。

美空ひばりさんの話題について語ると、どうしても中心的な内容は芸能活動が中心になってきてしまいます。

しかし、美空さんも一人の女性であり私生活もあるわけです。

私生活となると、やはり結婚という話題は避けて通れません。

で、今回は結婚について書いていきたいと思います。

第一回目の婚約

前回の記事「美空ひばりさんの歌手誕生から三代目山口組組長・神戸芸能社」でも書きましたが、美空さんは、昭和31年(1956年)に同じ音楽仲間の小野満さんと婚約しました。
しかし、後に解消されています。

婚約解消の理由は?

後の記事で触れていこうと思っていますが「美空ひばりさん母喜美枝さんとの一卵性親子・身内のトラブルと死・愛燦燦」以前の記事でも軽く触れていますが、美空ひばりさんは、9歳のデビューの時からお母さんでもありマネージャーでもある喜美枝の存在があったようです。

今も昔もステージママというものは、あるようで、しかし喜美枝さんと、ひばりさんの関係は、それ以上と言ってもいいのでしょう。

どうしても喜美枝さんは、自分の娘のひばりさんを、自分に独占的に手元に置いておきたい意識がかなり強かったようです。

その為に、他人の小野満さんが、ひばりファミリーに入ってくることが気に障っていたようです。

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ひばりファミリー

ひばりさんのお母さんである喜美枝さんの考えは、身内以外は信じるな!と言う考えだったそうです。

恐らく、9歳のデビューするまでにもひばり親子に対しても風当たりは相当きつかったので、自分たち以外に対して敵愾心と猜疑心が強くなったみたいです。

で、ファミリーである”ひばりファミリー”の考えに異なる人は、長年付き合いのあったスタッフであっても即クビにしたそうです。

そんな状態ですので、事あるごとに小野満さんに対して小言を言って嫌がらせをしていたようです。

そうなってくると、小野満さんも嫌気がさして婚約を解消したそうです。

第二の結婚

今回は、婚約解消でなく結婚はされています。

しかし、後に離婚されているという関係です。
御相手は、小林旭さんです。

馴れ初め

小林旭さんと美空ひばりさんですが、当初小林旭さんは、浅岡ルリ子とおつきあいをしていたそうです。

しかしその当時、小林旭さんは、浅岡ルリ子さんのお父さんに結婚を申し込みに行ったこともあるそうですが、その当時浅岡さんが20歳ぐらいで、まだ女優を続けなければならないなどの理由でこの結婚は成立しなかったようです。

そんな小林旭さんですが、丁度どの映画の撮影かは不明ですが、撮影所に小林旭さんはいたところを何度か美空さんが車から見ていたそうです。

そして美空さんは、小林さんに対して恋心を持ったそうです。

肉食女子ひばり

美空ひばりさんは、歌手としての名声を得るためにも努力しましたが、恋を得るにも努力されたみたいです。

美空さんの性格は、欲しい物は、どんなことをしても手に入れるという性格のようです。

その本領が今回の恋愛においても遺憾なく発揮されたみたいです。

キッカケとなったのは、昭和36年(1961年)雑誌「明星」の企画した対談の場だったそうです。

美空さんは、開口一番「恋人はいるの?」と訪ねたそうです。

それに対して小林さんは「いません」と答えたそうです。

先ほども触れたように浅岡ルリ子さんとの結婚破談になったばかりで恋愛どころでは無かったのでしょう。

しかし美空さんは、そんなことお構いなしです。

欲しい物獲得のためには前進あるのみ「エイエイオー」状態です。

で、美空さんは小林さんに対して「じゃあ私と親しくて」と言ったそうです。

そうして付き合うようになったそうです。

そうなるとブレーキがきかなくなるのが美空さんです。

あっという間に美空さんのペースに巻き込まれて行ったそうです。

田岡組長登場

そうなって来ると、美空さん手加減しません。

パーティーなど行けば小林さんのことを「私のダーリン」と公言してはばからなかったそうです。

まさに、外堀をじわじわ埋められているような物です。

世間一般の認知として結婚秒読みというような雰囲気を作っていったそうです。

こう言うのって男は引いてしまうんですがね。

でも男の人は女の人にこれと同じようなことやっちゃうんですが。

美空さんの芸能人としての父親代わりの田岡一雄に頼み込んだみたいです。

小林さんに「結婚したいという意志を伝えて欲しい。」と、お願いしたそうですます。

田岡組長にしてみれば、可愛い「お嬢」から頼まれれば嫌とは言えないのが親分家業です。

で、ついにその日がやってきます。

小林旭の自宅前に、黒塗りの1台の自動車が横付けされました。

そこから2~3名の若い衆が降りてきて、後からやって来たのが田岡組長です。

以下は、その時のやりとりです。

田岡組長:「お嬢があんたに惚れていると言うとんのや。天下の美空ひばりにあんた惚れられて、男冥利に尽きるやないか。」

小林旭:「僕は結婚するにはまだ早いので」

田岡組長:「ひばりはアンタと一緒にならなんだなら、飯を食わへんというとんのや。どや、一緒になったれ!」

小林旭:「わかりました」と首を縦にうなづきました。

むちゃするわ。

完全にひばりさんが振り切ったような物ですね。

そして結婚

そして昭和37年(1962年)11月5日にひばりさんと小林は結婚しました。

しかし早々からトラブル続発です。

美空ひばりさんは、完璧な妻になろうと努力したみたいです。

まあ、年頃ですから結婚して幸せな家庭生活にあこがれるのは、無理のない話です。

実際、小林さんは後年『徹子の部屋』で

「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」

と述べたそうです。
美空さんは美空さんなりに一生懸命に旦那の大好物を作ろうと、料理の本をみながら天下の「お嬢」がローストビーフを作ったりしていたそうです。

こうしてみていると滑稽な感じがしてなりません。

でも、これが良くなかったのかもしれません。

喜美枝さんの反撃

元々、ひばりの母・喜美枝は、この結婚には、反対のようでした。

まあそうでしょう。

以前にも書いたように、一卵性親子で”ひばりファミリー”以外信用するなといってはばからない人ですから、結婚なんて論外でしょう。

実際、喜美枝さんは、小林さんに対して口癖のように言っていたことが

「加藤和枝は嫁にだすけど、美空ひばりはやらないよ。」

と言ったそうです。

そして、喜美枝さんは、こうも言っています。

「人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したこと」

だと後に公言して憚らなかったほどである。

小林さんにしてみれば、その言葉ソックリ返すわと、言いたいでしょう。

小林さんが積極的に望んだ結婚でなく、美空ひばりさんが半ば、押し切って結婚を迫ったような物で、言ってみれば小林さんは、犠牲者ですよね。

結婚生活破綻・離婚・入籍せず

こんな状態で、本人同士は、夫婦仲むつまじく暮らしたいと思っているのですが、周りの横やりがきついようです。

入籍できず

小林さんと美空ひばりは結婚はしているのですが、戸籍上は入籍していなかったそうです。

経緯として、小林は入籍を希望しました。

そりゃそうでしょう。

結婚していて籍を入れないなんてこの当時ではほぼ無いでしょう。

今は、氏名の別姓など色んな形態がありますが、この当時は見受けられませんでしょう。

理由は、またまた母親です。

ひばりの母が、不動産処分の問題があると言う。

何か意味のわからない理由で入籍を拒まれたそうです。

そもそも結婚したのはひばりさんで、母親ではないので横から差しで口を言って、止めること出来ないと思いますが。

よって、小林さんと美空さんは入籍しておらず、戸籍上ではひばりさんは生涯独身状態だったそうです。

ようは、結婚式だけ挙げた形だけ夫婦だったようです。

仕事状態

ひばりさんは、以前にも書いたように、結婚当初は、良き妻でいるために一時的に仕事をセーブしていたようです。

しかし、実母の喜美枝さんや周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、仕事を入れようとしてきたみたいです。

その辺は、安室奈美恵さんは、すごかったですね。

6時以降の仕事は厳禁ですから。
土日も仕事はセーブです。

「安室奈美恵さんの息子の安室流子育て・子供時代顔写真?」

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中々出来ません。

最も、ひばり自身も歌に対する未練を残していたので、だんだん仕事を入れるようになったみたいです。

まあ、田岡組長とかも恐らく仕事を再開して欲しかったでしょう。

そうなると、むげに断り続けるのは難しかったでしょう。

こうして、小林が求めたよき家庭の妻として傍にいてほしい願いもなし崩しになったみたいです。

実父の死

こうして美空ひばりさんの結婚はなし崩し的につぶれていくことになりました。

そんな中、1963年に、ひばりの実父・増吉が肺結核により52歳で死去されました。

ひばりさんの芸能活動に異を唱えた唯一の人でしたが、お亡くなりになり、もはやひばりファミリーで、ひばりさんの活動を止める人は誰一人いなくなり、別居した後に1964年、わずか2年あまりで小林と離婚しました。

組長が幕引き

そんな状態の中、ひばり親子に頼まれて田岡組長は、離婚会見2日前に、小林さんにこう言ったそうです。

「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」

と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べています。

なんか小林さん可愛そうですね。

小林さん田岡組長さん両名ともひばり親子に振り回されただけですね。

記者会見

離婚することになり、当然の様に記者会見を開いたそうです。
しかし、おもしろいのが別々会見は開かれたそうです。
小林の会見
出席者:田岡組長と菱和プロ社長・嘉山登一郎
内容:

「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」

「理解離婚」と言う言葉は、意味深ですね。

さしずめ今では協議離婚というのが今の言葉になるのでしょう。

その当時は、そんな言葉今もありませんが、珍しかったのでこの「理解離婚」という言葉は当時流行語となりました。

「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかった。」

とも語っている。

この辺が、この言葉に込められているのでしょう。

小林さんが出来る数少ない無言の抗議でしょうね。
残念ですね。

その1時間半後に今度は、ひばりさんの会見が行われたそうです。

ひばりの会見
出席者:田岡組長
内容:

「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」
「自分が幸せになる道を選んだ」
と答えた。
「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」
「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」

とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける。

誰を傷つけるのでしょうか?

小林さんではないですよね。

芸を捨てきれないことに対する無理解です

誰が無理解なんでしょうね。

小林さんではないですよね。

恐らくこの言葉の矛先は、母をはじめとした関係者に向けられたのだと理解しています。

でもはっきり言う事は、立場的に出来ないぎりぎりの言葉だったのだと思います。

裏を返せばそれだけ美空ひばりという存在が色んな関係者を巻き込んだ存在だと言うことをこの若年時に思い知ったと言うことでしょうか?

この人は、芸以外で幸せを掴む以外許されない存在になってしまった事に気づいた可愛そうな人だったのだともいます。

その後

美空さんは、離婚会見した後に『柔』は東京オリンピックもあって翌1965年にかけて大ヒットしたそうです。

売り上げたレコード枚数は180万枚だったそうです。
この数は美空ひばりさんの全シングルの中で最大のヒット曲となりました。

時代が良かったですね。

【画像】柔
今回第2回目の東京オリンピッックが開かれますが恐らくこの様なヒット曲は無いでしょう。

ちなみにこの曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞しました。

【画像】『悲しい酒』
翌年1966年には『悲しい酒』が145万枚。

【画像】『芸道一代』
その翌年1967年には『芸道一代』は、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となりました。

【画像】『真赤な太陽』
この曲は、『真赤な太陽』とともに代表曲となりました。

レコード売り上げは140万枚だったそうです。

このようにひばりさんはこの時期代表作となる作品が次々と発表しました。

私的には、彼女は仕事以外逃げるところがないので、全て忘れす為に闇雲に突き進んだと思います。

やはり可愛そうな気がします。

きっと人気が絶頂に向かえば向かうほど心は耐え難い孤独を感じたのだと思います。

では、今回はここまでにしたいと、思います。

次回は、今まで美空さんの絶頂から下り坂を下っていくことになる身内の不祥事や養子の事など触れていきたいと思います。

今回の前の記事については以下の頁にございますのでどうぞよろしくお願いします。

「美空ひばりさんの歌手誕生から三代目山口組組長・田岡一雄について」

「美空ひばりさんの歌手誕生から三代目山口組組長・神戸芸能社」

続きは以下のページになりますのでどうぞよろしくお願いします。

「美空ひばりさん息子の逮捕? 嫁は?現在は?」

「美空ひばりさん母喜美枝さんとの一卵性親子・身内のトラブルと死・愛燦燦」

「美空ひばりさん病魔との闘い・みだれ髪々と」

「美空ひばり「不死鳥コンサート」・川の流れのように・死因は?」

では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。

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