今回は、橋田壽賀子を採り上げます。
橋田壽賀子と言えばドラマ「渡る世間は鬼ばかり」・「おしん」が有名ですね。
そんな橋田壽賀子が、脚本家でビューしたのは、昭和24年に、橋田壽賀子が入社した松竹で、脚本部に配属されたのがキッカケのようです。
デビューしたのはその中で昭和39年に書いた脚本が、『袋を渡せば』で脚本作家デビューしました。
その後立て続けにヒットドラマを手がけて生きました。
そんな橋田壽賀子ですが、1996年に結婚をしています。
では、そんな橋田壽賀子の子供について見ていきます。
そんな橋田壽賀子ですが、2回結婚されています。
一度目の結婚は、1971年に結婚をされています。
お相手は、岩崎嘉一さんです。
二度目の結婚は、2001年で再婚相手は、一般人のようです。
では、そんな橋田壽賀子の子供について見ていきます。
Contents
橋田壽賀子の子供は何人?
橋田壽賀子ですが、子供はいるのでしょうか?
調べると、橋田壽賀子には、子供が、いないようです。
では、橋田壽賀子には何故、子供がいないのでしょうか?
一番大きな理由は、橋田壽賀子が結婚したのがかなりの高齢になってからの結婚で、橋田壽賀子が、結婚したのは、当時41歳でした。
この年齢では難しいですね。
橋田壽賀子に子供がいないもう一つの理由
先に、橋田壽賀子に子供がいないのが結婚したのが、高齢である事はご紹介しました。
しかしもう一つ考えられる物があります。
それは、橋田壽賀子の生き方にあるように思われます。
橋田壽賀子が、松竹に入社して、脚本部で脚本作家として活躍した事は冒頭でも述べました。
あの当時職業婦人として生きていくのは、かなり希なケースです。
たいていの女性は、結婚と同時に仕事を辞めて、家庭にはいるのが一般的です。
ちなみに橋田壽賀子自身も、旦那はかなりの亭主関白で、家庭に入れば仕事をしてはならないと言われていたそうです。
後に家庭に入ってからも仕事を続けることになりますが、夫から言われていたのは、私も見える時は脚本の仕事はしてはならないと言われていたそうです。
そして橋田壽賀子は、その言いつけを夫が亡くなるまで続けていたそうです。
つまり橋田壽賀子は、そんな環境下で仕事を続けてきたのは、かなりの独立独歩の人生観があったようです。
それは子供に対しても向けられていたようです。
つまり子供に頼らない生き方のようです。
ちなみにそれを裏付ける物として、橋田壽賀子は、子供について以下のように語っています。
「子供は親に頼るな、親は子供に期待するな
私は家族がいなかったから、ホームドラマがたくさん書けたと思っています。
かりに息子などいて「お母さんはこんなこと考えてたのか」なんて思われたら、好きなように書けないじゃありませんか。
手加減したりカッコつけたドラマが、面白いはずありません。
親も夫も子供もいないから、誰にも遠慮せず本音が書けるのです。
かりに親が健在だったら、私はこう言います。
「老後の世話をするのは嫌だから、自分のお金でちゃんと自分の始末をしてほしい。
その代わり、遺産は一銭も要らないわ」
冷たいですか? でも、もしも子どもがいたならば、
「自分の最期は自分で準備するから、あなたに面倒を見てもらうつもりはない。
自分で稼いだお金は全部使って死ぬから、遺すつもりもない」
と告げたでしょう。
世の中の親は我が子のために節約を重ね、少しでも財産を遺そうとします。
しかし私は反対です。
私の知人の女性は、旦那さんを亡くしたあと、お姑さんの面倒を見ながら息子と娘を育てました。息子のお嫁さんも娘も働いていたので、幼い孫たちをよく預かっていました。
そうやって家族の世話をすることが、彼女の生き甲斐でした。いつも私に、
「壽賀子さんは可哀そうだ。子どもがいないから」
と言いました。
子どもがいなくてよかったと思っている私には、彼女こそこき使われて可哀そうに見えたのですが、何も言わずにいました。
やがて彼女は、長男一家と一緒に暮らすつもりで3階建ての二世帯住宅を建てました。
ところがそのあとになって、お嫁さんが「一緒に住むのは嫌だ」と言い出したのです。引用:橋田壽賀子と安楽死#2「子どもがいないから可哀そう」と言った友人の可哀そうな最後:「文春オンライン」編集部」
何かあり得るような話ですね。
しかし、あの当時の女性は、「壽賀子さんは可哀そうだ。子どもがいないから」と言った女性が圧倒的に多いでしょうから橋田壽賀子のような生き方は、可愛そうに見えたのでしょう。
しかし橋田壽賀子は子供にも頼らない生き方を全うされたのだと思います。
橋田壽賀子の旦那はどんな人?馴れ初めは?
橋田壽賀子には、子供が居ない事が解りました。
では、橋田壽賀子について次に興味があるのは、旦那についてのようです。
橋田壽賀子の旦那の名前は、岩崎嘉一と言います。
橋田壽賀子と旦那の岩崎嘉一は、1996年5月10日にご結婚されています。
結婚当時橋田壽賀子は、41歳で、岩崎嘉一は37歳でした。
姉さん女房だったのですが、亭主関白だったようです。
では、橋田壽賀子は、どのように岩崎嘉一と知り合ったのでしょうか?
岩崎嘉一との馴れ初めは?
馴れ初めは、正式には発表されていませんが、以前橋田壽賀子の自伝テレビで触れられていましたが、どうも橋田壽賀子が、旦那の事を好きになったようで、旦那の事が気になってしょうがなかった橋田壽賀子が仕事に手が着かなくなったそうです。
そこで、橋田壽賀子の書いた脚本をドラマ制作をしていた担当者だった、TBSのプロデューサーだった石井ふく子に泣きついて橋渡しを依頼したそうです。
そんな二人の馴れ初めについて書かれた物がありましたので以下に紹介します。
「2人の馴れ初めの詳細などは公表されていないのですが、結婚した当初・旦那の岩崎嘉一さんはTBSの企画課長で人望熱き熱血のテレビマンだったのです。
1964年から放送されたTBSドラマ「ただいま11人」の脚本を橋田壽賀子さんが担当したことがきっかけ2人は知り合いました。
アプローチをかけたのは、橋田壽賀子さんからだったそうです。
引用:橋田壽賀子の夫の岩崎嘉一の死因。子供や現在について。」
いやはや仕事に恋に大変ですね。
夫の死因は?
では、そんなおしどり夫婦ですが、1989年9月に夫の方が先にお亡くなりになったそうです。
では、死因どうだったのでしょうか?
夫の死因ついて橋田壽賀子さんが2017年11月25日にインタビューした物がありましたので以下に紹介します。
「橋田:主人が肺がんだとわかったときはもう転移していて、お医者様には「長くて半年です」と言われたので、告知はしませんでした。今思えば、私のエゴイズムでしょうね。
当時は、治らないのに告知したらかわいそうだと思っていました。
でも本当は自分がその現実と向き合うのがいやだったんです。
本人に告知すると、本人はもうじき自分は死ぬんだという気持ちを抱えて生活することになる。
そういう相手と、一日向き合っていられますか? 私は自信がなかった。
自分をごまかすために言わなかったんです。
小笠原:病院勤務時代ですが、ぼくも抗がん剤を使う患者さんに、がんだと言えなかった時期があります。
その病院では本人に告知をしないという方針だったので。橋田:昔はそれで通りましたね。
小笠原:はい。それでも患者さんはうすうす気づきます。
どうなんでしょう、ご主人もやっぱり、ご自分ががんだということはわかっていらっしゃったんじゃないですか。
橋田:いや、わかってなかったと思います。
たばこもやめてと言わず、好きに吸わせていましたし。
私は主人のことを病人扱いせず、自宅でふだん通りの生活をしてもらいました。
「家で一日パジャマでいちゃいやだ」とか、「ひげもちゃんと剃ってね」とか、「洋服もちゃんとしたのを着てよ」とか。
人様が来ると一緒に食卓を囲み、もう行けなくなるからと、おいしい料理屋さんに食べに行かせたりもしました。小笠原:それはよかった。そこまでやれる女性は、なかなかいません。
橋田:ウソをついてると、自分でもそのウソを本当だと信じちゃうんですねぇ、きっと。
小笠原:そう思います。
信じる者は救われるじゃないけど、当事者が信じ込むと、決してバレない。
でも隠し通そうとすると、必ずバレる。
ぼくは「がんじゃない」と意図的に隠し通そうとしていたから、患者さんに気づかれた。不信感をもたれ、医師と患者の関係にすきま風が入りました。
ぼくは未熟な医師だったんです。
橋田:主人は明るく死にました。やっぱり自分ががんだとは知らなかったと思います。
最後の治療で新幹線に乗ったとき、これが最後の新幹線になるのかなあと思ったら、その2日後に病院で亡くなりました。小笠原:理想の亡くなり方ですね。
普通に動けていたのに、2日後に亡くなった。
ピンピンコロリじゃないですか。橋田:急に悪くなって。
小笠原:いやあ、ぼくの経験では、がんというのは家で暮らすと、余命が延びるんです。
それで歩けなくなったら、3日で亡くなることも多い。しかもがんだったら、痛みを取るモルヒネ注射もあるし、のみ薬や貼付剤、坐薬もあります。
苦しまなくても済むのがいいですよ。橋田:だから、私はがんもいいなと思いましたね。
自分ががんだということを、知らなければ、ですが。引用:橋田壽賀子の夫の岩崎嘉一の死因。子供や現在について。」
やはりたばこでしょうね。
今はタバコ吸う人が少なくなりましたが、この当時はまだ吸う人が多くいましたからね。
でも橋田壽賀子は、十分看病したので何よりです。
で、この闘病についてもドラマにしたようです。
さすが脚本家魂ですね。
画像は?
では、岩崎嘉一の画像はどんな物か調べてみました。
調べた結果、非公開のようです。
やはり一般人の為でしょうか?
橋田壽賀子は現在終活中?
では、現在の橋田壽賀子は、何をしているのでしょうか?
もうかなりのご高齢なので、脚本書きのの仕事は控えていると聞きます。
自宅は、熱海だそうで、元橋田ファミリーの一員の泉ピン子も熱海に居を構えているどうです。
もう脚本は書かないとかすでに終活を始めていると今現在の橋田壽賀子さんは言われています。
そんな橋田壽賀子の現在について書かれた物がありましたのでご紹介します。
「そして、一人暮らしをされています。
静岡県の熱海市にお住まいで東京と往復する生活を現在されています。
いろいろとまだ仕事はされていますが終活に取り組んでおられるんです。
なにもないけど一番幸せとも語られています。
たくさんあった蔵書の多くは図書館に寄贈されました。
押し入れの片付けをしていて出てきた120個ものハンドバッグも処分されてしまいました。
【画像】自宅からの熱海
誰も貰い手のなかったバッグはリサイクルショップに持っていったら40万円以上のお金になったそうです。
終活ということで着々と準備をされているんでしょうね。
人に迷惑を書けたくないとも述べられており、そのためにバランスボールを使ってストレッチをしたりトレーニングマシーンを使って体力つくりにも力を入れられています。
以前は毎日近くのプールで800mも泳いでいたそうです。
そのプールがなくなってからは週に3回ジムで1時間のトレーニングをおこなうようになったんです。
2015年の12月から昨年2016年の3月まで「飛鳥II」で海外クルーズにも行かれました。
引用:橋田壽賀子の今現在!夫と子供は?熱海の自宅と終活も紹介!」
いやはや悠々自適な生活ですね。
終活についての本出版について
橋田壽賀子は、いよいよ終活の活動を始めたようです。
その内容について本を出版されたようです。
【画像】渡る老後に鬼はなし
今回は、橋田壽賀子の子供事情に付いてみてきました。
橋田壽賀子にとって、夫婦は、かけがいのない物のように思います。
子供がいない分余計にそうのように思えました。
後の余生有意義に生きて欲しいと思います。
では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。