後藤久美子さんの夫ジャン・アレジさんの若い頃・F1レーサーになるまで


今まで、妻の後藤久美子さんについて見てきましたが、次に旦那のジャン・アレジさんに付いてみていきたいと思います。

いつものようにプロフィールから見ていきたいと思います。

ジャン・アレジさんのプロフィール

本名   :ジャン・アレジ(Jean Alesi)

生年月日 :1964年6月11日

出身地  :フランス ヴォクリューズ県アヴィニョン

身長   :170cm

体重   :74kg

趣味   :スキー、ゴルフ、テニス

F1での経歴活動時期:1989 – 2001        所属チーム:’89-’90 ティレル

      ’91-’95 フェラーリ

      ’96-’97 ベネトン

      ’98-’99 ザウバー

      ’00-’01 プロスト

      ’01 ジョーダン

出走回数:202

タイトル:0

優勝回数:1

表彰台(3位以内)回数:32

通算獲得ポイント:241

ポールポジション:2

ファステストラップ:4

初戦:1989年フランスGP

初勝利:1995年カナダGP

最終勝利:1995年カナダGP

最終戦 2001年日本GP

出生・性格について

生まれは、フランスで生まれましたが、両親はイタリア出身の方です。

しかもイタリアの中のシチリアの出身だそうです。

シチリアと言えばマフィア発祥の地ですね。

そんな場所柄のせいかどうかは解りませんが、性格的には、良く言えば情熱的、悪くいえば直情的である。

つまりはカッとなりやすい性格のようです。

だから周りの人から「大きな子供」と呼ばれたこともあったそうです。

しかしF1レーサーとしてはそのような性格は有利に働いたのかもしれません。

良くも悪くも情熱的に燃える性格でなければあのような職業務まりませんから。

まあ勝負師としては有利に働いているようです。

仕事仲間と言うよりも職場のボスでもあるイタリア出身の実業家。

ルノーF1チームの元チーム代表、およびマネージング・ディレクターである、フラビオ・ブリアトーレ曰く

「アレジは子供のところがある。彼にはパパのような存在が必要だ。だからベルガーをチームに迎えたんだ」

と発言している。

両親及び幼少期

両親はシチリア出身のイタリア人であり、イタリア語名ではジョヴァンニ・アレージ (Giovanni Alesi) というそうです。

お父さんの職業は、自動車修理工場を経営しているそうです。

こう聞くと私たちは、日本の自動車修理工をイメージして中小企業のようにイメージしてしまいますが、アレージさんの工場は、かなり大きく資産だけで数百億円相当だそうです。

この辺が、恐らくF1の道に進むキッカケを作り又、F1をしていくのに大変有利に働いていると推察します。

その辺のことは後ほど記載していきたいと思います。

で、アレジ少年はは、工場の敷地内でフランスを代表するシトロエン・2CVやルノー・5などを運転して、運転を覚えていったそうです。

まだ覚え立ての頃は、うまくいかず横転したこともあったそうです。

F1レーサー初期時代

私は、F1の事をあまり知らないのですが、F1ファンから見ると、いつも極限まで攻めるアグレッシブなドライビングで有名だったようですね。

きっと先ほども書いたようにシチリア人気質が言い意味で影響しているのかもしれませんね。

レーサー時代にはあの有名な、フェラーリのエースもしていたことがあるようです。

若手ドライバー育成のシステムなし

そんなスターレーサーですが、レーサーになるための初期の段階は、かなりきつい状態だったそうです。

F1レーサーになるためには、やはりレースに出ないと上達しないことはわかりきっていますが、アレジ氏が、レーサーになった当時は、駆け出しのレーサーの卵たちが、レースをできるように、若手のサポートシステムなど当時は、無く全て自力でしなければならなかったそうです。

今のアレジ氏からは想像つきませんが、当時親からも“レーシングドライバーは職業じゃない”と言われたそうです。

まあ、勝たなければ収入はないし難の保証もない世界ですから職業とは言い難いと思います。

一番辛かった時代

アレジ氏もレーサーの卵として、レースに出始めた初期の頃が一番辛かったそうです。

レーサーと言っても座学はたくさんあるそうで、限られた時間で覚えなきゃ行けないことがたくさんあったそうです。

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ちなみにこの辺のもっと詳しい話は、アレジ氏の息子さんの項目で触れていきたいと思います。

そんなアレジ氏にとって最も苦しかったのが、フォーミュラルノーでの2年だったそうです。

その苦しさを乗り越え徐々に認められてF3へ昇格した、2シーズン目でチャンピオンも獲得できたそうです。

そこから国際F3000に昇格しましたがレベルが上がれば更に苦しくなったそうです。

1年目に、オレカというチームに所属していましたが、クルマやチームの運営が不出来で、結果を出す事が出来ませんでした。

このチームの所属していた最後の頃は、結果を出すことが出来ないので、すごく辛い思いをしたそうです。

F1レーサーたる者いかなる事態に陥ろうと結果を出す。

出せない者は去れ。

と言うのが、勝負の世界です。

一大ピンチ資金がストップ

そのシーズンの終盤には、スポンサーのマールボロからの資金提供も打ち切られました。

これは、致命的ですね。

現在では、若手育成のためのスポンサー・サポートを受けている人のことをレッドブルと言うそうですが、その当時アレジ氏のスポンサーは、マールボロだったのです。

マールボロのおかげでレースに出場することが出来ました。

しかしその援助がなくなったのは本当にピンチですね。

救いの神

茫然自失ですね。

あれだけ強気のアレジ氏も、この時だけは、すごくガッカリして途方に暮れていたそうです。

そんな時、友人のエディ・ジョーダンから連絡があり、「F3000の僕のチームに乗らないか?」とオファーをもらったそうです。

これで首の皮一枚つながった気持ちではなかったでしょうか。

これがあったから後の名レーサーが生まれたのですからやはり努力のたまものです。

これがキッカケとなり、もう一度挑戦することができて、その年(1989年)は第一位を獲得することができた。

父のサポート

以前レーサーは職業じゃないと言ってレーサーの道に対して反対していた父親です。

しかし、アレジ氏が今のように活躍できたのは、父親の熱心にサポートがあればこそです。

父は、反対はしたものの、レーサーとしての素質は見抜いていたそうです。

やはり車の仕事に従事していただけはあったのだと思います。

その甲斐もあり、F3に参戦し始めて、結果が出るようになりスポンサーがつくようになり、そこからは経済的に楽になっていったそうです。

レーサーとしてフェラーリーチームへ

苦節を乗り越えて、1989年フランスGPでF1としてデビューしました。

その翌年にティレルに移籍しました。

その時、いきなりアイルトン・セナと互角の戦いを繰り広げるなど、周囲を驚かせる走りをみせました。
懐かしいですね。

平成のバブル時代に一時カーレースのブームがありました。

その時は、片山右京・中嶋悟・アイルトン・セナなどが人気でした。

そして、念願のフェラーリのレギュラーシートを獲得しました。

では、今回はここまでにしたいと、思います今回の前の記事については以下の頁にございますのでどうぞよろしくお願いします。

「後藤久美子さんの子供時代・国民的美少女・オスカープロダクション」

「後藤久美子さん・若い頃・タイ人とのハーフ・整形疑惑?」

「ジャン・アレジとの馴れ初め・略奪愛・後藤久美子さん・現在は?」

 

続きは以下のページになりますのでどうぞよろしくお願いします。

「後藤久美子さんの旦那ジャン・アレジ ・事実婚について・現在は?」

「後藤久美子さんの子供 3人・長男ジュリアーノ・F1選手に?」

「後藤久美子さんの息子の画像・次男ジョン・子育てポリシーとは?」

「後藤久美子さんの 娘(長女)エレナ・画像・老けてる・残念・身長」

では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。

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