美空ひばりと山口組の田岡一雄の神戸芸能社の関係はお嬢・おじさんの関係?


今回は 美空ひばりと、三代目の山口組組長田岡一雄と、かつて山口組の中にあった神戸芸能社という芸能プロダクションとの関わりについてご紹介したいと思います。

美空ひばりが芸能活動をする際に、この関係が切っても切れない関係で、その当時、世間では連合軍と言う、名前で呼ばれていたようです。

しかし現在では暴力団と、芸能人の関係について、厳しい目が見られますが、この当時は、暴力団の後ろ盾がないと、芸能活動を行うことが大変難しかったようです。

では、美空ひばりが、芸能活動で、今日の世間で知られるほどの有名人になっていく過程でおいて、その影で、山口組との関係についてご紹介したいと思います。

美空 ひばりのプロフィール

では、まず初めに美空ひばりのプロフィールからです。


「名前:美空 ひばり

出生名:加藤 和枝(かとう かずえ)

生誕:1937年5月29日

身長:147cm

出身地:神奈川県横浜市磯子区滝頭

死没:1989年6月24日(満52歳没)

学歴:横浜市立滝頭小学校・精華学園高等部卒業

愛称:御嬢(おじょう)

ジャンル:歌謡曲、演歌、ジャズ

職業 歌手、女優

担当楽器:歌

活動期間:1949年 – 1989年

レーベル:日本コロムビア

事務所:ひばりプロダクション

12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。

昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。

引用:Wikipedia:美空ひばり」

では、どのようにして美空ひばりと山口組との関係が出来ていったのでしょうか?

それについて、次にご紹介します。

 

美空ひばりと山口組の出会い

美空ひばりが、山口組と出会うのは、デビューする前の有る出会いから始まります。

それは、美空ひばりが、1948年2月、神戸松竹劇場への出演にした時から始まります。

その時、神戸での興行・裏経済や警察関係など色んな方面に顔が利く絶大な影響力を持っていた山口組の三代目組長の田岡一雄に挨拶行ったそうです

その後田岡組長とのおつきあいが続くキッカケとなったそうです。

このことについて、後に詳しく述べたいと思いますが、園であった時がどのような物であったのか次にご紹介します。

 

田岡組長との初対面とエピソード

美空ひばりが、上でも書いたように神戸松竹劇場へ出演するため、横浜国際劇場支配人の福島通人を通じて、母・加藤喜美枝と美空ひばりは、田岡邸へ出向いたそうです。

美空ひばりさんはその時11歳です。

それにしても度胸ありますね。

天下の大ヤクザの大親分の自宅に出向いて挨拶したのですから。

そのことは、田岡組長も感じていたようです。

その時田岡組長に対して、物怖じせず挨拶するその姿に、尋常ならざるオーラと、無限の可能性を感じ取る。

やはり大物になるのは、そのようなエピソードを持っている物です。

その時の様子は以下のようなものでした。

「ひばりちゃん、このおじちゃんに歌ってくれるか」
「はい。でもおじちゃん、どんな歌を聴きたいですか

引用:Wikipedia:美空ひばり

このような、話をしたそうです。

この堂々としたまた子供っぽいあどけなさをもったこの少女を非常に気に入ったそうです。

そして田岡組長の前で、藤山一郎の代表曲『影を慕いて』を完璧に歌いあげました。

その力量と才能に度肝を抜かれたようです。

こうして2人は出会ったわけですが、有る事件で2人の結びつきは更に強固になっていったそうです。

 

塩酸事件

その問題の事件は、1957年1月13日、浅草国際劇場で起こりました。

当日その劇場で、美空ひばりはショーを行いました。

その時、そのショーを観に来ていた観客の中の熱烈なファンの一少女から塩酸を顔にかけられたそうです。

幸い緊急に浅草寺病院に救急搬送されて入院した結果、奇跡的に顔に傷は残らなかったそうです。

本当に良かったと思います。

不幸にして傷でも残ったらその後の芸能活動に支障が出ていたことでしょう。

そのおかげで、歌舞伎座公演を行うことが出来たそうです。

丁度、現場にいたブロマイド業者らによって犯人を捕まえ、警察に突き出したそうです。

 

塩酸事件以降の田岡組長と美空ひばり

塩酸をかけられた美空ひばりさんにとって、あの事件は決定的なものとなったようです。

やはり若い少女にとってあの事件はよほど怖い思いをもったので、今まで以上に田岡組長に庇護を求めたとしても、致し方のないことも想像がたくないことでしょう。

事件の起こった時ってちょうど10代の多感な時期に起こったのだから怖かったというもんじゃなかったと思います。

その当時美空ひばりさんは田岡組長のことを「神戸のおじさん」と呼んでいたそうです。

 

田岡組長・美空ひばり”連合軍”時代

以上のような経緯により田岡組長は、この才能ある少女を「彼女を生涯にわたって守ってやろう」と固く誓ったそうです。

 【画像】神戸芸能社

では、どう守って行くのでしょうか?

それが、次に出てくる神戸芸能社の看板芸人として徴用していくことになった行くそうです。

 

山口組三代目・田岡一雄と神戸芸能社

一方、山口組の内部でも新たな動きがあったようで、その中に美空ひばりも取り込まれていきます。

それは、山口組の中で元々あった事業部を独立の企業組織に変えて会社を設立することになりました。

そこの会社の看板歌手に美空ひばりが抜擢されていくようです。

【画像】神戸芸能社:なんでも書いちゃってます(山口組四代目は誰に)

上でも触れたように、美空ひばりさんがまだ駆け出しの頃、1948年2月、神戸松竹劇場に山口組に挨拶したことを触れさせていただきました。

【画像】神戸松竹劇場

そこから山口組とつながりがずっと続いています。

【画像】田岡一雄:山口組三代目 田岡一雄自伝 第2部

1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。

この当時の事について実録小説『神戸芸能社』の著者、山平重樹氏が証言されています。

今は、芸能人と暴力団のかかわりはタブー視されています。

今でも多くの芸能人が暴力団のつながりがあって業界から干されている方も多々います。

例えば島田紳助氏なんかは、有名ですね。

しかし、昔からヤクザのしのぎの重要な柱の中に芸能の興業がありました。

山口組もそのような訳で、山口組にも「山口組興行部」と呼ばれる組織が昔からあったそうです。

その為に神戸での浪曲の興行などは取り仕切っていたそうです。

その後、その組織である山口組興行部を、1957年に「神戸芸能社」と組織変更しました。

その時この神戸芸能社には、多くの有名スターが所属していましたが、美空ひばりと田岡組長の間は、別格で“連合軍”と呼ばれていたそうです。

 

当時の芸能界とヤクザの関わりについて

こうして2人の蜜月関係が成立しましたが、やはり良いことばかりではありません。

芸能人と暴力団の繋がりは、今だと大スキャンダルになる格好のネタになります。

ではその辺はどうでしょうか?

上でも書いたように、元々ヤクザの主要な資金稼ぎの一つが興業ビジネスです。

当時の山口組もその例外ではありません。

今以上にヤクザの力が大きく各劇場プロダクション興業を行うありとあらゆる分野に網の目のようにかららの力が及んでいてそもそも、興業を行う際には彼らの力を借りる以外に、芸能人自体は、方法がなかったのです。

今でも芸能人とヤクザの関わりはまだ残っていますが、この当時はそもそも芸能人とヤクザは一心同体が当然と思われていた時代です。

よって地方巡業に行く時にはかならずとの土地を仕切っている暴力団のところは挨拶にいくのが、興行するうえので慣わしでした。

今とは、比較になりませんし、比較すること無意味という時代でした。

慣わしくらいになっていたので、何も美空ひばりだけ特別なわけではなかったのです。

ネットのキーワードで”美空ひばり 山口組”と出てきますが何も当時は特別なことではなかったのです。

ただ美空さん自体が、あまりにも世間に対する影響力が大きすぎたことと関西最大のヤクザ山口組との繋がりが強かったに過ぎません。

 

ヤクザの力を無視したら

その当時に、暴力団にとって興行を手がけることは、とても大事な収入源だったからです。

もし土地を仕切っている暴力団のところに挨拶に行かなかったとすると、・・・とんでもない事になってしまいます。

間違いなく興業自体が成立することはなかったでしょう。

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神戸芸能社とひばりプロダクション設立へ

美空ひばりさんにとって大きな後ろ盾を持ったことによりより多く活動の領域を広げることが出来ました。
先ほど出てきた神戸芸能社に1957年4月1日、田岡組長から誘われて美空ひばりさんは神戸芸能社の専属となりました。

そして同年6月には、「神戸芸能社」の傘下でひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任し一層繋がりが強くなっていくわけでした。

 

ひばりプロダクションの役員は

このプロダクションの役員は以下の通りです。

社長:美空ひばり
副社長:三代目組長の田岡一雄
役員:母喜美枝
   小野満

この効果は覿面でした。

翌月の7月に、美空ひばりさんは東映と専属契約を結びました。

その結果「べらんめえ芸者シリーズ」「ひばり捕物帳シリーズ」映画出演だけでなく主題歌も歌っています。

今でも芸能人のよく行う鉄板の法則ですね。

ちなみに役員として小野満さんですが、後に触れますが、昭和31年(1956年)に美空ひばりと婚約しましたが、後に解消することになります。

しかし、婚約解消してもこの様に繋がりは保たれたようで、まあ、同じ音楽を志す同士として終生繋がりは保たれるようです。

 

美空ひばりの芸能界デビューについて

こうして2人の関係を今まで見てきましたが、そもそも美空ひばりがどうやって山口組と知り合うまでになったかの道筋を以下で触れていきたいと思います。

 

幼児期

父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれました。

父親は、魚屋の「魚増」を営んでいました。

後、妹の佐藤勢津子さんと、弟のかとう哲也・香山武彦さんという家族構成です。

ちなみに弟二人とも後に歌手となります。

こうしてみると歌があふれている一家のようです。

恐らく歌好きの父親の影響ではないかと思います。
あの当時としては、今と違って大変高価だったレコードがあったそうです。

その為か、その当時の流行歌を歌うようになったのでしょう。

 

『九段の母』熱唱

時代は、戦争時代で、父親の増吉さんも、1943年6月、第二次世界大戦に招集され行く事になりました。

だいたい出征するときは、壮行会などが開かれることが通例で、その会合で、ひばりは父のために『九段の母』を熱唱したそうです。

同席した人達が、ひばりの歌に感銘し、涙する姿が続出したそうです。

まあ、会の性質から考えて感傷的にならざるを得ない事は事実です。

幼い我が子が、愛する父の出征のために精一杯の力を込めて歌を歌えば涙する人も幾人か出る事は想像に難くありません。

しかしその時の歌は、その想像を凌駕する物だったのでしょう。

その状態を目にした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を始めるようになった。

それが、実質的な歌手美空ひばりの原点と言ってもいいと思います。

 

美空ひばりのデビューのきっかけ

戦争も終わり、本格的にひばりさんは、歌を歌うようになっていきました。

母・喜美枝さんが、1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」をつくりました。

そして色んな所へ出張講演を行っていきます。

近所の公民館・銭湯などなど。

そうした場所に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝と言う芸名で初の舞台を踏みました。

ちなみにこの芸名は母の提案だったそうです。

きっと青空の美しい空から来たのではないでしょうか。

そして、1946年、NHK『素人のど自慢』に出場しました。

のど自慢大会の予選で『リンゴの唄』を歌ったそうです。

 

のど自慢

ひばり親子は、意気揚々とのど自慢大会予選にやって来ました。

当然両名とも優勝間違いなしと、思いこんでいたようです。

まあ、今までの経緯から考えてそう思うのは無理からぬ事でしょう。

しかし、現実は非情です。

自分の思っていない事が、平然と起こるのが現実という物です。

結果は、優勝の鐘が鳴らなかったようです。

 

理由

審査員達が、不合格にした理由は、

「うまいが子供らしくない」
「非教育的だ」
「真っ赤なドレスもよくない」

という理由で悩んだ挙句、不合格となったそうです。

”うまいが子供らしくない”百歩譲りましょう。
”非教育的だ”・”真っ赤なドレスもよくない”なんじゃそれ。

て言いたいですね。
NHKは何か?

”非教育的な”番組を国民に放送するのか?

”真っ赤なドレスもよくない”大人だったら教育的か?そもそも歌の上手い下手と赤いドレスとの因果関係あるのか?

何を言いたいのか意味不明ですね。

どうも昔も今もこの様な戯言言い輩が評論家や審査員とか言う輩には多いですね。

 

直談判

ひばり母子はこの判断に納得いかなかったそうです。
そうでしょう。

そこで引き下がっていたら美空ひばりは誕生しなかった事でしょう。

母ちゃんガンバレですね。

で、ひばり親子は、審査員の一人でその当時の流行歌の大御所、古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願したそうです。

【画像】古賀政男
この当時古賀政男後からは実力ともに絶大でした。

で、美空ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌ったそうです。

その事に古賀政男は、度肝抜かれたそうです。

そして、言った事は、

「子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。

もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。

引用Wikipedia:美空ひばり

ようは、素人芸ばかり見ていた他の審査員は、才能実力を公平に見る目がなかったと言う事でしょう。

まあ後の美空ひばりを知っている我々からしてみれば、当然の事でしょう。

 

大事故、九死に一生

そうした、事もあり自信を持って芸能活動を始めました。

そして、1947年、横浜の杉田劇場の漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。

だんだん、プロの歌手っぽくなってきましたね。

今でも下積み生活ってこんな感じありますからね。

杉田劇場って、現在も存在している区民センターみたいですね。

よく歌手が、各地方の劇場で歌を歌うというのは今でもよくありますから。

そして、美空ひばりはしばらくこの一座一行とともに、地方講演していきます。

そんな修行中の美空ひばりに重大な一大事が起こったのです。

それは、高知県に巡業した時、ちょうど1947年4月28日に、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号でひばり母子が乗車していたバスが、トラックを避けようとして崖に転落するという重大な事故に巻き込まれました。

バスは穴内川に転落し全員死亡したそうです。

そんな中美空ひばりたちは、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまったので九死に一生を得たそうです。

しかし、ひばりさんは、左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態でした。

そんな事故でしたが運良く村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、危機一髪を脱する事が出来ました。

あの当時無医村多いので、この様な事は、本当に奇跡的といてもいいくらいの物です。

やはり、強運の持ち主でもあったのだと思います。

そして、家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったそうです。

まあ、普通の父親は言うでしょうね。

しかも父親は、ひばりさんの芸能活動を快く思っていなかったそうです。
当時芸人になるのは、人間辞めますみたいな感じでしたから。

しかし、ひばさんりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切ったそうです。

 

師・川田晴久との出会いと山口組

 

その年の5月に、まだ駆け出しの無名でしたが、当時11歳の美空ひばりさんの才能を見抜いた当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)さんが横浜国際劇場公演に抜擢しました。

ここで、初めに出てきたことと結びついたわけです。

上の項目、「田岡組長との初対面とエピソード」の冒頭の箇所ですが、以下のような内容です。

「美空ひばりが、上でも書いたように神戸松竹劇場へ出演するため、横浜国際劇場”支配人の福島通人を通じて、母・加藤喜美枝と美空ひばりは、田岡邸へ出向いたそうです。」

この横浜国際劇場が、後の山口組田岡組長と出会うキッカケになったわけです。

つまり美空ひばりの歌の師匠である川田晴久氏が、2人の出会いのきっかけを作ったようです。

ちなみに川田晴久氏ですが、往年の以下のような活躍をした方で有名ですね。

【画像】川田義雄
川田さんと言えばあきれたぼーいずが有名です。

今聞いても歌詞は笑えます。

そして川田さんは、ひばりを近くに置いていて、美空ひばりさんも川田さんを「アニキ」と呼びあう関係だそうです。

そんな川田さんと美空ひばりさんの関係を物語るエピソードがあります。

美空さんは川田さんから大きな影響を受けていました。

ひばりさんは、当時歌の中の節回しを川田節から学んで実践していたそうです。

その歌い方を専門家に声紋鑑定したところ二人の節回しが一致したそうです。

すごい物まねですね。

やはり天才は天才のマネをするから最速で天才になっていくのでしょうね。

そんなひばりさんは

「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に言っていました。

引用:Wikipedia:美空ひばり

 

この後、田岡組長は、美空ひばりの旦那との縁も取り持ったりと公私ともの関係になっていきます。

では、今回はここまでにしたいと、思います。

では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。

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