前回までに、宮沢りえさんは、結婚をしたが遠距離婚のためにあえなく離婚することになり、永きにわたり泥沼の離婚裁判を経て離婚するところまで前回は見ていきました。
離婚にこれだけ時間が掛かったかは、子供の親権をどちらが取るかが争点になりました。
結果宮沢さんの言い分が通り親権を獲得しました。
それでやっと娘との水入らずの生活のはずですが、周りから娘がかわいそうという声があるようです。
今回はその辺を中心に見ていきたいと思います。
息子がかわいそう
事の発端は、女性セブン2016年5月5日号に載った手記からです。
内容は、宮沢りえの元旦那の母親が、述べた手記からのようです。
一言で言えば、離婚してから一度も娘とは会っていないと言うことのようです。
裁判の中で、親権は宮沢りえさんの物になりましたが、定期的に娘と会うことが出来る旨になっているの
に実際は会うことが出来ないようです。
以下はその内容を掲載します。
宮沢りえの元義母が告白「息子がかわいそう」
「3才から会っていないから…、会えないのは寂しいですね」
宮沢りえの元夫Aさんの母親だ。「もう4年近く会っていません。小学校に入ったことは知っているけれど、写真が送られてくるわけでもないので…。
3才までのかわいい姿を見させてもらったから、いい思い出をもらったなってプラスに考えるようにしているの」(義母)
「息子がかわいそうでね。3年間、一生懸命イクメンをして孫もいちばんなついていましたから。
息子なりにいろいろ考えて運動神経を鍛えようとしたりね。
会えないのはかわいそうだな、って」(義母)
今まで何度か出てきた親権ですが、宮沢りえさんは、慰謝料を払ってでも親権を得たかったそうです。
しかし一方元夫の方も、親権だけは譲らないと裁判を辞さない。
それで、宮沢りえさんと元夫の間で協議はもつれにもつれた事は従前お通りです。
実際の所は?
今回問題になっている「面会交流」ですが、英根幹京に詳しい専門家の長瀬佑志弁護士の意見によると、例え離婚して親権を失ったとしても「面会交流」は認められているはず。
だそうです。
又一方こうも述べています。
「親権を持たない親が子供に会う機会は基本的に面会交流として認められています。
ただし、“面会が子供の健全な成長を妨げる可能性がある”と裁判所に判断されると拒否されることがあります。
例えば、虐待をしていた場合や、子供が“望んでいない”場合です。
面会交流の可否や方法は当事者同士で話し合われますが、まとまらないことや、約束が反故にされることは少なくありません。
その場合、裁判所に面会交流の調停を申し立て、可否や方法を検討してもらうことになります」
中々大変なようです。
この辺のことはデリケートで難しいですね。
もしこのことが本当なら恐らく宮沢さんは、子供を旦那に会わせたくないのでしょうね。
まあ考えてみれば娘が父親にあってもし、別れたくないと言ったら大変ですからね。
そうさせないためにも元旦那に合わせない方が安全と考えるのは無理からぬ事です。
しかし考えればそれは親のエゴも言えなくありません。
こうして子供を抱え込むような態度を取る一方今現在付き合っている男性と、子供を預けて旅行に行ったりもしています。
宮沢りえ、森田剛と“子どもを預けて”沖縄旅行!
宮沢りえさん、近年V6の森田剛さんと付き合っているそうです。
【画像】宮沢りえさんとV6の森田剛さん
まあ、今までにも見てきたように恋愛遍歴が多い女優さんですからそう言うのもあり得るのかもしれません。
それは、母親の血なのか、それとも一人でおれない症候群なのでしょうか?
まあ、それについてはいいのですが、世間では、その時取った宮沢りえさんの子供さんに対する態度に批判が集まっているようです。
それは、森田剛と沖縄旅行に行ったようですが、その際“子どもを恐らく親戚かニーナ(子育て専門の女中のこと)に預けて”沖縄旅行に行った事が、ママ層から
「娘を置いておいて旅行に行くことは考えられない・可愛そうだ・やっぱりまだ女を捨てることが出来ないんだ・母になりきれていない」
と、批判が集まっているそうです。
ま、確かにあれだけ裁判してまでして親権を獲得したにもかかわらず子供を置いて旅行に行くのは考え物と言えば考え物ですね。
しかし芸能人の子供であれば、仕事の都合で子供を誰かに預けて出かけることは純分考えられます。
それに宮沢りえさんの生い立ちから考えてまともに子育てされた経験が無いので彼女だけを一方的に責めるのはいかがな物かと思います。
まあ、どうであれ子育てするのは、宮沢りえさん自身ですからその辺のことは考えてもらいましょう。
宮沢りえの母の壮絶な最期
今回のタイトルから見て番外になりますが、やはり今まで”毒親”と言われ続けました、宮澤光子さんですが、2014年9月23日に肝腫瘍で死去されました。
良きにつけ悪きにつけ宮沢りえさんをスターに押し上げたのは、紛れもなく宮澤光子さんの力以外の何者でもなかったでしょう。
しかしその一方強引な売り込み営業は各方面から批判もありました。
宮沢りえさんも成長して一人の女性として恋をするようになったときに対してもつねに口をはさみ、一時期は不仲説も流れたほどでした。
一卵性親子と言われるほど、仲が良いと思われていた母子でした。
しかし過度に営業第一主義があった為に恋仲に対して介入した為に、不仲説も納得ができます。
成長した宮沢りえが、自分の意志を持って母である光子に立ち向かうようになったのでしょう。
そんな母親も肝腫瘍になり、余命幾ばくもなく死を覚悟していたときノエピソードを紹介します。
「ウチの母はがんだったんだけど、死に様はすごいその人が出るものだって。
死ぬ瞬間やその人がしゃべった言葉が忘れられない」
「治療をしないと決めたときに私は満足だった。無駄な延命(治療)をしないと決めて過ごしていたけど、母の部屋から桜が見えるんですね。
母が『来年もこの桜が見たい』って言って。
初めて生に対しての執着を感じた」と母親の忘れられない言葉を明かした。
それを聞いた笑福亭鶴瓶(64)は「安心させたかったんだと思う。みっちゃんはそういう人やで。
“大丈夫、来年も生きている”って(言いたかったのだろう)」とフォローした。
「息を引き取る瞬間も一緒にいられた。
壮絶だった。息を吸って吐けることがすごいことなんだと教えてくれたし、命に限りがあると告げられた人に誠実さを欠いちゃいけない。
すごいモデルがいたから」と親の死に目に立ち会ったことで、教えられたことがあると語った。
内容を見てやはりすごい人だったんだと思います。
娘の宮沢りえさんも波瀾万丈ですが、母親はそれ以上波瀾万丈だと思います。
こんな光子さんですが、光子が亡くなる前は、孫を可愛がっていたという証言もあります。
一時仲が悪かったと、言われていましたが、病気をわずらって余命幾ばくもないことが、少しは宮沢りえさんとの関係性も変化していたのだろうと推察されます。
世間に病気が知られると、宮沢りえの仕事に響くことを気にしていたとも言われます。
死ぬ最後まで娘の将来のことを案じていたことは、最後に母になったのかもしれません。
こうして、母を失ってしましましたが、宮沢りえさんの子供さんとどのような生活をしているのか見ていきたいと思います。
では、今回はここまでにしたいと、思います。
今回の前の記事については以下の頁にございますのでどうぞよろしくお願いします。
「宮沢りえ 伝説の写真集サンタフェの内幕と母光子の積極営業」
「宮沢りえと貴乃花婚約会見から破局・原因と真相は?から拒食症・激やせ」
続きは以下のページになりますのでどうぞよろしくお願いします。
「宮沢りえさんの娘の名前・アロハ・年齢・顔の画像・学校・小学校は?」
では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。