宮沢りえさんの生い立ちと娘時代と芸能界入りと母の若い頃


前回、後藤久美子さんについて書いていきましたが、そこでも触れましたように同時期に活躍し、ある時は、ライバル、又ある時は、良き友人でもあった宮沢りえさんについて書いていきたいと思います。

調べてみると、同時期に活躍していた・子役から活躍していた等共通項もあります。

しかし一方歩んだ人生や考え方は、真反対のような気がします。

色んな意味で対照的な所が興味深い物です。
では、いつものようにプロフィールからです。

宮沢りえさんのプロフィール

名前:宮沢 りえ(みやざわ りえ)
本名:宮沢りえ
生年月日:1973年4月6日(44歳)
出生地:東京都練馬区
身長:167 cm
血液型:B型
職業:女優、歌手、ファッションモデル
ジャンル:映画、テレビドラマ
活動期間:1985年 –
配偶者:一般人男性(2009年 – 2016年)
事務所:エムツー企画
主な作品:
テレビドラマ:
『青春オーロラ・スピン スワンの涙』
『協奏曲』
『神様、もう少しだけ』
『フードファイト』
映画
『ぼくらの七日間戦争』
『たそがれ清兵衛』
『紙の月』
『湯を沸かすほどの熱い愛』

 

宮沢りえの母と生い立ち

 

宮沢りえさんを語る上で外せないのは、お母さんの光子さんの事です。

元々光子さんは、六本木でホステスをしていたそうです。

私たちが知っている、光子さんはお年を取ってからの光子さんしか知りません。

しかし若い頃は、かなり美しかったそうです。

あの大女優である、加賀まりこも美貌について証言しております。

宮澤光子
生年月日 1948年~49年生まれ
没年   2014年9月23日

 

宮沢りえさんのお父さんは?

 

そんな美貌の母をもったりえさんですが、お父さんはどうなんでしょうか?

宮沢りえさんの父親は、オランダ人だそうです。

だから宮沢りえさんは、オランダ人の父を持つハーフと言うことになります。

宮沢りえの父親とお母さんの光子さんの馴れ初めは、オランダ人男性は船乗りで、留学目的の渡欧中に出会ったそうです。

しかし宮沢りえが生まれるとすぐに、宮沢りえの祖父に預けて、光子さんは、旦那が住むオランダに移り住んだそうです。

光子さんは、完全に母であることより女であることを優先したようです。

もう生まれたときから波瀾万丈な人生の幕開けですね。

その為か、光子さんのことを“毒親”言われるキッカケとなったようです。

もっともこれ以降光子毒親列伝は、続きます。

それだけしても、結婚生活はわずか4カ月で破綻し離婚したそうです。

離婚したのは、父親側の反対があったようです。

父方の両親も賢明だったと思います。

生まれた子供を、投げ捨て自分の幸せだけを追い求めるような女性を息子の嫁に迎えると後でろくな事はないでしょうから。

その後、宮沢りえは、祖父や親せきの子どもたちと一緒に育てられました。

この時期が恐らく宮沢りえの人生で一番幸せな生活だったと思います。

 

宮沢りえの芸能界入りのキッカケは?

 

こんな宮沢りえさんですが、母親の存在が後々重要な存在になってきます。

ちなみに宮沢りえさんが、芸能界に入るキッカケですが、小学四年になったときに、オランダ人の父と母である光子が、離婚をして日本に帰国し同居を始めています。

【画像】少女時代の宮沢りえ

ここで、長い間離ればなれに暮らしていた母と子の対面を果たしたわけですが、母親の光子は、我が子の宮沢りえさんを見て大変可愛い事と、周囲の人の薦めもあって芸能界にデビューさせました。

つまりは、本人の意志と言うよりも親の薦めで芸能界へ進みました。

少し変わったパターンですね。

その当時から宮沢りえさんは、素直でユーモアがあって性格がいいと言われていました。

しかも子供の時分より親戚の家にやっかいになっていたせいかどうか解りませんが、当時から周囲の大人の顔色をうかがいながら、可愛がられるような人格になることが生き残る術だと考えていたようです。

宮沢りえの子役時代

 

ちょうど11歳の頃にモデルとして芸能界でデビューしました。

その当時最大のライバルは、前の記事でもとりあげた後藤久美子さんです。

当初は、後藤久美子さんが蹴った仕事を引き受けて細々と活動していましたが、程なくして雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルとなりました。

【画像】『週刊セブンティーン』

そうして一躍世間に注目されるキッカケとなったのがCMの仕事でした。

1987年(昭和62年)、CM『三井のリハウス』の初代リハウスガール“白鳥麗子”役を務めて注目を集め、トップアイドルの一人となった。

【画像】CM『三井のリハウス』

この“白鳥麗子”と言う名前如何にもお嬢様にふさわしい名前だったので一時流行になりとんねるずとも共演しコントしていたことを記憶しています。

【画像】なりとんねるずとも共演

他にもCM色々出ていました。

参考までに。

【画像】日立マクセル

後、まだ子役時代ですが、この作品も宮沢りえさんの子役時代の代表作ですが、「ぼくらの七日間戦争」でも注目されました。

【画像】「ぼくらの七日間戦争」

では、今回はここまでにしたいと、思います。

次回は、宮沢りえさんの娘時代の一番大きな話題の一つである写真集サンタフェに関する事とそれに母親、光子が、あの手この手で宮沢りえさんを売り出すために積極的に営業していたことについて触れたいと思います。

続きは以下のページになりますのでどうぞよろしくお願いします。

「宮沢りえさんの伝説の写真集サンタフェの中身と内幕と母光子の積極営業」

「宮沢りえと貴乃花婚約会見から破局・原因と真相は?から拒食症・激やせ」

「宮沢りえの娘の父親は中津ひろゆき?元プロサーファー?」

「宮沢りえの元義母、息子について・子ども置いて沖縄旅行・娘がかわいそう」

「宮沢りえさんの娘の名前・アロハ・年齢・顔の画像・学校・小学校は?」

では、今回も最後までお読みいただきありがとうございます。

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